「軟X線マイクロ分光分析ステーション」の提案

高エネルギー加速器研究機構物質構造科学研究所放射光科学研究施設(KEK−PF) 北島 義典
yoshinori.kitajima@kek.jp
2005年 7月 7日


本稿は、2004年6月にPFの直線部改造に伴う挿入光源ビームライン増強計画デザインレポートの原稿として執筆されたものである。デザインレポート全体は、いまだ出版されていないが、「PF挿入光源ビームライン増強提案(暫定版)」 が2005年3月に公表されており、その141〜145ページに掲載されている。

はじめに

サイエンス

    軟X線領域の利用という観点から考えると、前述のように様々な元素についての研究を行うことが可能であり、研究対象としては、原子・分子から有機物、半導体材料、触媒、鉱物、環境、生命体まで多岐にわたっている。実際に、このエネルギー領域をカバーする実験ステーションでは、これまで様々な研究が行われており、分野を特定することはできない。が、ここでは3つのトピックスを採り上げておきたい。

  1. 軟X線吸収及び発光分光による微小・微量元素の状態複合分析
    X線を使う分光法の最大の特徴は“元素選択性”であり、特にX線吸収分光(XAS)法は元素選択性による高感度に加えて化学状態による吸収エネルギーのシフト(ケミカルシフト)を利用できることから、物質中の微量元素の電子状態分析に幅広く応用されてきている。XAS法が非占有電子状態(伝導帯または空軌道)の情報を与えるのに対し、X線発光分光(XES)法からは占有電子状態(価電子帯)の情報が得られ、両者を組み合わせればバンドギャップを知ることができる。発光として観測されるX線には蛍光X線とラマン散乱があるが、軟X線領域では、いずれも量子収率が低く、従来の光源では長時間の積算を行ったとしても、分解能を犠牲にしたり、高濃度試料に対する測定しかできなかったりしている。

    新挿入光源の高輝度特性を活かして従来は犠牲にしていたエネルギー分解能の向上もしくは低濃度試料に関する測定が実現できれば、XAS法で得られる情報に加えて遷移する電子の中間状態に関する詳細な情報を含むことができるようになり、微量元素の電子状態分析をこれまでよりはるかに詳しく行うことが可能となる。このような測定は、半導体中にドープされた微量元素や触媒中の微量元素あるいは固体表面に吸着した分子の電子状態研究への応用が考えられている。これら微量元素の電子状態をより深く知りその知識を応用することで、新しい半導体や触媒の開発に繋がることが期待される。

  2. 軟X線顕微鏡による生体試料の観察
    X線顕微鏡は、主に水に対して透明で生体物質に対して不透明である、いわゆる“水の窓”領域(炭素の吸収端[280 eV]と酸素の吸収端[540 eV]の間)を利用する軟X線顕微鏡を中心に発展してきたが、近年では物質中に含まれる特定の元素の吸収端でコントラストをつける硬X線領域の顕微鏡の進歩も著しい。それらに比べて、中エネルギー領域(2 - 4 keV)には、生体試料に含まれる極めて重要な元素であるリン、イオウ、カルシウムなどのK吸収端が存在するが、適当な高輝度光源が少ないなどの理由もあって、顕微鏡の利用はあまり進んでいない。

    図3右は、PFの偏向電磁石光源を用いて開発が行われている密着型軟X線顕微鏡を用いた生体試料(ヒト子宮頸がん由来HeLa細胞)の画像[X線エネルギー2140 eV]である。光強度が不充分であるため、左の位相差光学顕微鏡像と比べて分解能がかなり劣っているが、1〜4の場所を選んでリンK吸収端のスペクトルを調べると(図4)、明らかな違いを見ることができる。DNAの吸収ピークを利用してイメージングを行えば、分裂期細胞における染色体中のDNAの分布を観察することが可能になると考えられる。

    Microscopic views of human HeLa cell

    図3:ヒト子宮頸がん由来HeLa細胞の顕微鏡画像。左は光学顕微鏡による画像で、右がリンK殻吸収端付近の軟X線(2140 eV)による画像。右図中の1-4は、図4のスペクトル測定エリアを示す。



    Micro XANES spectra of human HeLa cell

    図4:図3右のエリア1-4におけるリンK殻吸収端付近の軟X線吸収スペクトル。DNAのスペクトルをあわせて示した。エリア3ではDNAに近いスペクトルが得られたが、エリア4ではスペクトル形状がやや異なっている。



    X線顕微鏡で必要な空間分解能を100-200 nmとすると、必要となる光量は1014-1015 photons/mm2(108-109 photons/μm2 )程度と計算される。乾燥試料を対象とする場合は必ずしも短時間で必要ということでもないが、ある程度の領域を走査することを考えれば1点あたり数秒程度で露光できれば能率的である。この光量は、新挿入光源ステーションにおいて2-3 keV領域でちょうど到達可能な値である。

  3. 光電子放出顕微鏡による表面反応の観察
    固体の表面で起きる触媒等の反応あるいは表面の構造相転移が均一に進行するのではないことが光電子放出顕微鏡(PEEM)による実時間観察で明らかになりつつある。通常のPEEMでは、紫外線ランプを光源に用いて、仕事関数の違いによる放出電子の量の違いを明暗の画像にしているが、光源としてX線を用いることによって画像の濃淡に元素選択性を持たせることが試みられている。特にPFの放射光を用いて開発が進められているエネルギー分散型PEEM(EXPEEM)では、1 keV以上の軟X線を入射して、放出される光電子のエネルギーを分離して検出することにより、容易に元素選別像を得ることが可能になる。図5は、タンタル基板上に金をパターン蒸着した試料のPEEM像であるが、エネルギー選別せずに全電子を補足した場合(左)で明るく見えている金が、タンタルの光電子を選別して検出すること(右)により周囲の金より暗く観察される様子を示す(中は金の光電子を選別して検出した場合)。

    XPEEM images of Au/Ta

    図5:タンタル板に金をパターン蒸着した試料のXPEEM像。励起光のエネルギーを2380 eVとし、全電子(左)、金3d5/2光電子(中)、タンタル3d5/2光電子(右)を選別して検出した。



    しかしながら、従来は強度が不足しているために、実時間観察には到っていない。従来の観察に必要とされる時間から見積もると、新挿入光源ステーションで試料上での光子密度が向上すれば、ある程度の実時間観察が可能になることが期待できる。

デザイン

    ビームラインは、2 keV以上の領域を利用する結晶分光ブランチA(吸収・発光分光分析ステーション及び軟X線顕微鏡ステーション)と1-2 keVを利用する斜入射分光ブランチB(光電子放出顕微鏡ステーション)の2分岐とし、振り分けミラーの抜き差しによって切り替えて利用するようにする。

  1. 結晶分光ブランチ(ブランチA)
    図6に、特に高エネルギー分解能を狙う場合の発光分光分析の配置を示した。分解能よりも光強度を優先する実験の場合に前置分光器を2結晶1段とすることができるようにする。

    Optics for beamline and spectrometer

    図6:ブランチA(結晶分光ブランチ)の概念図。



  2. 斜入射回折格子分光ブランチ(ブランチB)
    近年、光学素子作製技術の進歩と相まって安心して利用可能な不等間隔平面回折格子を用いた斜入射型分光器を設置する。利用するエネルギー領域が1 keV以上と限定されているので、偏角は一定とし、最上流の振り分けミラーの入射角を適切に設定することによって、高次光除去ミラーも不要と考えられる。特に高エネルギー分解能を狙うよりも強度を重視したいので入射スリットを置かず、また光学素子の枚数を減らし回折格子及び最終段の集光系を含めて4枚とする。

  3. 性能

    1. 結晶分光ブランチ
      2 〜 3 keV 通常モードで 10 μm2以内に分解能2×10-4で最大1010 photons/s、高分解能モードでは分解能10-6で最大107 photons/s (より高いエネルギー領域3 〜 8 keVでは、強度がやや下がる)

    2. 斜入射回折格子分光ブランチ
      1 〜 2 keV スポットサイズ 0.1 mm × 1 mm以内に分解能(バンドパス)0.5 eV以内で最大1010 photons/s

    位置付け

      1ないし2 keVから3.5 keVくらいまでの利用を想定して、放射光の位置付けを考えると、それはもう光源として独壇場であると言うことが挙げられる。もちろん、MgやAlをターゲットとするX線管は存在するが、特定のエネルギーのみしか利用できず、輝度も放射光には遠く及ばない。B, C, N, O, F, Neの第2周期元素の内殻(K吸収端)や3d遷移金属のL3吸収端は全て1 keV以下になるが、Na, Mg, Al, Si, P, S, Cl, Arの第3周期元素のK吸収端をはじめとして、多くの元素の内殻励起に関係する分光研究(吸収、光電子、X線発光など)が1 〜 3.5 keVの軟X線放射光によって実現されてきている。この領域のアンジュレータ光源ビームラインは、SPring-8にも存在せず、中エネルギーリングならではの特徴ある存在となるであろう。

      需要見込み